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前のブログにこんなことを書いていて、どきっとした。
『#2009.12.22 Tuesday 生きていくことと 死んでいくこと よく紙一重だと聞くけれど 本当にそうであるのだな、と実感するのです
生きていてほしいだなんて 一方的な想いは、捨ててしまいたい わたしが無力であることの証明になるから そして、その願いは絶対に叶うものではないから
でも、生きていてほしいと願ってしまう 笑顔を見せてほしいって言ってしまいそうになる
けれども、それらの想いをどうにか抑えて 今はただ、大好きだよ、と伝えたい ありがとうって云いたいのです』
祖父がもう長くないことを母から聞かされたときに、書いた記憶があります。 あらためてこれを読んで、今と当時の考え方の軸があまりぶれていないような印象を受けました。しかし、当時は“わかっているつもり”だったのだと思います。
いろんな実習を通して“わかっているつもり”が恐ろしいと最近つくづく感じます。一つの考えが肯定されるのは、なにかしら体験をしなければならないのだなあと思います。
わたしの生きている時間が、現実と合致していく過程にあるため、ありきたりで理想めいた詩が書けない。そう。もう子どものままではいられない。
わたしの理想は、“何からも縛られず自由に生きていくこと”。けれども、それは絶対に現実にはならない。わたしが、この地で人として生きていく限り、あり得ないことだ。 このように自分自身が解釈していると、ようやく最近になって気がついた。そのため、以前書いた記事を読み返すと、無性に恥ずかしくなる。
人は何かに依存しながら生きていく。これは、変えられない事実だ。だから、わたしはこの事実の中で、自分であるために生きていきたい。自分を見失わないように、生きていきたい。 これが、本当の理想なのかもしれない。
ひとつ前の記事で書いたことと関連しているのですが、自分の中で生きていくために必要な答えが一つ出てしまったので、詩をめっきり書かなくなってしまいました。しかし、ご存知の方もおられるかもしれませんが、答えを見つけたからと言って、わたしのネガティブな思考が吹き飛んだわけではありません。そんな単純なことに、ようやく最近気がつかされました。やはり、詩を書いて自分の気持ちの整理をしていかなければならないなあ、と思います。
ここ数カ月間、どのようにして強く生きていけばいいのか?ということを考え続けていた気がします。答えはなんとなく出ました。 最初から自分は強くなんてないから、別に強くなって見栄を張る必要なんてないのだなあ、と。
- もっと自由に生きたい。 祈り続けていた内容をようやく思いだしたよ。
彼の指先には爪があって、その先に鳥がいて、彼女はただ笑っていて、彼はただ静かに微笑んでいる。
大切にしすぎた日々は、徐々に荒れ果てていく。 まだ誰も想像しない。 だって、誰もまだ知らなくていいから。
指がむくんで、身体の末端が腫れあがっていく。 どんな腕利きの医師だって治せない。 それは、誰もが一度、知る。
悲しいよ。 わたしは何度も消えたいと願ったことがある。 消えるということがこんなにも苦しいなんて、当時は思いつきもしなかった。
そして、消えないで、と祈ること。 それは、その失くしたくないものの存在を全否定することと同様だ。
ようやくわかった。 これで、生きていける。
ありがとう、おじいちゃん。